民主主義を脱透明化する
現代の西側において民主主義への反対者を自認する者はほとんどいない。西側の機関に非民主的であると認定されている諸国家においても、国家は依然として自らの民主的正当性を宣伝していることが大半であるから、これはある程度西側にも限らないのだろう。しかし、いったい民主主義の支持者であるとは今どういう意味なのだろう? 外部のない集団は同一性を確定できない。政治の空間では、民主という言葉は「良い」くらいの漠然とした内容しか伴わなくなっているように感じられる。
イデオロギーは一定の単純化された中心的信念を伴うが、無限に複雑な現実に対したとき、それらはほとんどの場合致命的に間違っている。民主主義もまたイデオロギーであり、誤った中心的信念に依存している。近代以後の民主主義の覇権はその事実を長く無標化・透明化させてきた。社会の覇権的イデオロギーの透明でない内実を指摘し有標化する、という論型は社会批判のために多用されるが、この記事はこれを民主主義に対して用いようとするものである。民主主義批判はなされていないわけではなく、『アゲインスト・デモクラシー』は、民主政をナイーヴに擁護する議論を実証的研究を数多く引用して丁寧に論駁する文献である。この記事の目的は少し違う。私の関心は、制度としての民主政を擁護ないし批判する論の吟味ではなく、イデオロギーとしての民主主義の中核にある信念の有標性を暴くことにある。
あなたは陰謀論者を論破できない
この記事を構想する直接の契機となったのは、第99回五月祭に学生サークルが神谷宗幣を招いて講演を行おうとしたことに起因する一連の騒動である。講演が発表されるとすぐさま、参政党の政治に反対する有志学生による対抗集団が形成され、当日、かれらは講演会場の入口に座り込んで、神谷宗幣にとって同意不可能であることが明らかな内容の宣誓書への同意を同氏に要求しようとした(なお、この座り込みが物理的封鎖を意図したものであったかどうかは、内部でも合意はなかったようである)。
純粋な言論によらない対抗行為には SNS 上で広く批判や懸念が表明された。比較的まっとうな批判は倫理的立場から来るもので、結果によらず暴力を許容不可能とする。しかし、そのような立場と同じくらい、帰結主義的な立場も見られた。東大生なら、参政党くらい論破してみせろ、そっちの方が対抗行為として有効だ、という類型の論である。こういう考え方は悪い意味で極めて民主主義的だ。
参政党のような非主流的な知識体系を有する集団は、対抗しようとする者に認識論的な問題を突きつける。たとえば、参政党はワクチンが健康を害すると主張しているから、これを「論破」することを考えてみよう。ワクチンが感染症を予防するという知識をあなたはどのように信じるに至ったのだろうか。もしあなたがワクチン研究者でないなら、あなたは専門家集団を信用しているだけだ。もしあなたがワクチン研究者だとしても、ワクチン研究者としてのあなたは依然として過去の医学と現在の医学界を信用し、その教育を十全に受けたことによってあなたの立場を得ているのである。もっと根本的な問題もある。あなたはワクチンが感染症を予防するという信念を獲得した瞬間とその契機を正確に思い起こせるだろうか。あなたはもしかすると大半の人間よりも優秀で、単に専門家を信じたのではなく、なんらかの詳細な議論に説得されたのかもしれない。その議論を正確に思い出して再現することはできるだろうか。あなたが普通の程度からあまり離れていないくらいの記憶力しか有していないのであれば、どのような知識についても、こういった問への答えは否であろう。難しい学術的な文献を読んでも、読んだ次の日には詳細をほとんど忘れていて主要な主張しか覚えていない、ということが私にはよくある。私だけの問題ではあるまい。まとめよう。私たちは私たちの知識がどのように獲得されたか覚えていないし、信念をどのように説得されたか再現できないし、ほとんど完全に権威に頼っている。
もちろん、神谷宗幣だって同じ認識論的問題に直面している。そこで次の手が出てくる。修辞法である。政治的言論の目的は、自身の味方を増やして政治力を獲得することにある。この限りにおいて、哲学的議論で相手を上回る必要はない。潜在的な味方に対して、自らのほうがより優れた主張ないし人格を有していると印象づけられれば十分なのである。前述した認識論的問題のため、実際には対面で行われるほとんどの議論がこちらのダイナミクスに従って決着する。政治家はこのわざを仕事にしているのであって、東大生に勝ち目はないであろう。
最初の論型に戻ると、東大生なら、というのは、理性や知識に優れた者はそうでない者に対する議論に勝つことができる、という信念の表明である。今見たように、それは正しくない。結果は相手が誠実なら引き分け、相手が政治家として本気を出せば負けとなったであろう。
そっちの方が対抗行為として有効だ、という部分はもう少し広いことを言っている。
五月祭の一件では、両者はおもに日本国政府の政治的意思決定について対立している。当たり前のことだが、政府の政治的意思決定は、民間で行われている議論の趨勢を直接反映する仕組みを有しているわけでもなければ、議論以外の影響を排除する仕組みを有しているわけでもない。前者は一般に「政局」と表現されるような、民主主義にとっては非本質的とみなされる要素の寄与が相当に大きいことを意味する。後者は、非民主主義的な手段や態度が民主主義国家においても有効であり得ることを意味する。安倍晋三の暗殺は自民党に歴史的な内部改革を強いた。ドナルド・トランプは民主主義の美徳から遠くかけ離れた態度で選挙戦に臨み二度大統領に選ばれた。特に左翼に対して、非民主主義的な手段の使用を慎むように求める言説は、それはきっとバックラッシュを招き悪い帰結に至るのだと主張することが多い。こういった態度には、現実の民主政には民主主義的振る舞いを奨励し、非民主主義的振る舞いを罰する強い機構が存在する、という信念が見え隠れする。そのようなものはない。
合意形成はどこで・いかに起きるのか
市民らが広場で議論をすると、かれらはより正しく好ましい向きへ自らの信念を変容させ、こういった行為が積み重なって国家の単位で意思決定を変容させ、そのようにして社会は進歩する。こういうイメージが民主主義の中心にはある。
もちろん実際には、政治的信念の異なる市民らを接触させると、かれらの政治的信念はむしろ極端になる傾向がある。こういうことは『アゲインスト・デモクラシー』によく書かれている。ということは、広場は合意を形成できないということだ。では、実際には合意はどこで形成されているのだろうか。
寡占的な情報環境が答えではないかと考えている。同様の教育を受けるなどしたことで、政治エリートの集団は相当な文化的均質性と高度な民主主義的マナーを有し、その内部では一定の合意が形成されうる。その結果はかれらの支配するマスメディアを通して市民に与えられる。市民には自由な言論が保証されているが、一般市民の言論が大きな影響力を持ちうることはほとんどないし、かれらの言論は事前にマスメディアが与えた情報と論点の枠内に縛られている。実際には意思決定をトップダウンに行いながら、宣伝によってその真逆のイメージを市民に信じさせてきたのが民主主義体制の実態である。これは極端な見方ではない。現に、政府が行うべき無数の意思決定のほとんどは、選挙と無縁の官僚組織によって成されてきた。つい最近まで、一般市民が公文書にアクセスするのは容易なことではなく、また仮に公文書を手に入れてその内容に問題を見出しても、せいぜい新聞社に投書を送って掲載されることを祈るくらいしか問題意識を発信する手段はなかった。
また、このイメージにとってもうひとつ重要なのは変容や進歩といった政治的可塑性の部分であるが、理想的に民主主義的な世界では、むしろ政治的可塑性は低下すると思われる。人々が理性的に議論を尽くすことが可能なのであれば、外界の事実が変化した場合を除いて、全体の合意を揺るがすような新しい信念はめったに出現しないはずだ。さらに、政治的平等がもっとも確保された社会において、政治的変化をもたらすために説得すべき人数は最大となる事実も指摘できる。実際には、社会の可塑性は人々の理性や謙虚さに由来するのではない。少人数による意思決定と合意の押し付けが可能であること、人々が議論を尽くすことができないこと、人がみな一世紀足らずで死んで世代が交代することなどが急激に変化する社会を実現している。
このように民主主義は、合意形成は下から理性的な議論によって実現される、議論や民主政においては民主主義的な振る舞いだけが有効である、広い政治参加は民主政をより良く機能させる、などの現実と乖離した信念を中核に有している。このような側面を特に指して、デモクラティック・イデオロギーという言葉を提唱したい。
情報通信技術が壊したもの
人々に民主主義をやめさせようと思ってこの文章を書くのではない。デモクラティック・イデオロギーが作り出す特定の社会規範は人類に間違いなく多大な利益をもたらしてきた。暴力は無効であると信じることで私たちは実際に暴力を減らし、理性的議論は可能であると信じることで私たちは実際に合理的存在に近づいたのではないか。しかし、デモクラティック・イデオロギーはすでに有標化の道を突き進み始めてしまったのだ。もちろん、インターネットのことである。
前節で「つい最近まで」と書いたところで気づかれたかもしれないが、デモクラティック・イデオロギーと民主主義体制の実態を理解すれば、インターネット、特に SNS が致命的効果を持っていることは明白である。広場で議論をすることで合意を形成するのだという気概に満ち溢れた市民たちは SNS に殺到して政治的言論を交換し、当然の結果としてかれらは合意からますます遠ざかった。おすすめアルゴリズムの出現は事態を一層悪化させた。ミームをその定義そのままに実装した SNS は言論に対する遺伝的最適化として働き、最大のエンゲージメントを引き出す目的のみに最適化された修辞法が氾濫した。公文書は誰でも政府のウェブサイトから閲覧できるようになり、そのスクリーンショットが連日炎上するようになった。結節点を再編し続けるバズの論理は脈絡なくひとつのものを取り上げては忘れることを日単位で繰り返し、熟議、立場の一貫性、政治的安定性といった概念を時代遅れにしてしまった。こういった現象は私たちに民主主義の虚偽性を望むと望まないとにかかわらず突きつけてしまったと同時に、その思想的基盤の虚偽にもかかわらず民主主義体制を機能させていた寡占的な情報環境を破壊した。このことを私たちの社会が予見できなかったばかりか、まったく真逆の未来像――デジタル民主主義というビジョン――を称揚してしまったことは、完全に透明化した覇権イデオロギーに目を曇らされた重大な失敗として記憶されるべきだ。
イデオロギーの側を調節するか、情報環境のロールバックを試みるか、いずれにせよ、なにかが成されなければ民主主義の後退は止まないだろう。
2026年現在の見通しを記しておくなら、今は思いもよらなかった方向から回復の可能性が見えている。LLM サービスだ。Costello らは、LLM は陰謀論者を説得できて、その効果は長期的に持続することを発見した。Tessler らは、LLM を仲介者として用いることで論争的な政治的話題についての議論から対立が小さくなるような合意を生み出せることを報告した。LLM サービスの倫理や価値観は提供企業によって設計されて組み込まれているものであり1、つまりこのような効果は LLM の振る舞いを支配する寡占的な情報環境の表れであると考えられる。
Footnotes
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LLM がインターネットの平均的意見を反映しているというのは誤解である。かもリバーの『AIを魔法から機械に戻す:LLMのふるまい編』はいい記事なので一読されたい。 ↩