長春と新京
導入
中国東北部のおおよそ中央付近に、吉林省省都を務める長春という都市がある。市域全体の人口が1000万人足らず、市轄区部が500万人あまり、地方中枢都市といった規模感の街だ。メインストリートを人民大街といい、南北に走るその通りの中心には、人民広場という広場を囲って大きなラウンドアバウトがある。自動車産業と映画が有名。
しかし、現在この都市を特徴づけるおよそどの要素も、100年前には存在していなかった。この地の都市としての歩みは1930年代、満洲国の首都建設地に選定されたところから始まる。その名は新京。人民大街と人民広場はかつて大同大街および大同広場と呼ばれた。この都市は日本人の手によって立ち上げられた計画都市なのである。そして、私の父の故郷でもある。
この記事は2024年秋の帰省時に構想していたものである。こんにちまで執筆されるに至らなかったのは、鬱病に依るところも大きいが、すでにインターネット上で見つけられる内容以上のものを書き上げることができないのではないかという疑念に依るところもあった。そのような思いは未だにある。日本語版ウィキペディア『新京特別市』はかなり充実していて、それを足場に多少の調べ物をすれば、あなたはすぐにこの記事を読まなくてもよくなるだろう。
しかし、そうであっても私はあの帰省で自分が見聞きしたものを書き残さなければならないと考えるようになった。いくつかの要因を挙げることができる。私が日本への中国系移民の2世であること、建築と歴史に強い関心を持っていること、そして、そこに日本による植民地主義なるものがあったことをまるで誰もが忘れてしまったかのように振る舞っていることだ。日本人は米国との戦争をその無謀さと悲惨さによって記憶することで、その前段としてあった植民地主義の時代を忘却した。中国人は毛沢東時代に悲劇の記憶を自国内で塗り替えてしまい、さらに改革開放以後の経済的成功によって被害者意識を脱した。長春の街の中に新京を探すとき、私は私だけが90年前の時空に一人戻っているかのような感覚を覚えることがあった。


(右)OpenStreetMap より、現在の長春市中心部。
目次
満洲国政府の植民地建築
人民広場から人民大街をさらに南へ向かうと、市を東西に走る解放大路と交差する。解放大路の旧名は人民大街の東側では吉林大路、西側では興仁大路という。興仁大路を西へ進んだところに新京の第二の軸線、順天大街がある。市内南西部に特徴的な直角二等辺三角形を描く南湖公園があるが、順天大街はその直角の頂点に配された安民広場から北へ伸び、興仁大路と交差するまで続く。現在は新民大街と呼ばれている。その北端には皇宮が建設される計画だったが、基礎部分のみが完成した状態で満洲国は終焉を迎えた。
つまり、順天大街は皇宮から南湖に向かって南向きに開いていく軸線として設計された。自然な発想として、その両側は官庁街となる。帝冠様式を「大東亜」向けに呼び替えた「興亜様式」の立派な建築が多く残されており、おそらく世界最大の帝冠様式建築の密集地である。北から紹介しよう。
なお、満洲国の行政機関は度々再編されているから、そのこと自体を把握しておかないと混乱が見込まれる。そこでこの画像を貼っておく。

国務院(第五庁舎)
満洲国はその表面上では、中華民国を意識しつつ大日本帝国を倣った立憲君主制の国家である。国務院は行政府に当たる。しかし実質においては、建国以前から立法府を形骸化させ独裁体制とすることが決まっており、国務院は最高意思決定機関であった。実際、立法府は最後まで正式に開設されることはなく、選挙は一度も行われなかった。

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軍政部(第九庁舎)
満洲国の国防は関東軍に掌握されていた。そのため、満洲国軍の主要な任務は版図内の警備及び治安維持であり、実際に、軍政部は37年から治安部に改名された。

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司法部(第六庁舎)
帝冠様式において唐突な印象になりがちな西洋風の躯体と東アジア風の屋根の切り替え部分を、躯体と屋根が繰り返す多層的な構造とすることで改善している。ゴシック風のアーチの頂点をアジア風の曲線に変えているところも巧い意匠だ。

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経済部(第十庁舎)
経済部の所掌には39年から各種専売品があった。満洲国は麻薬とアヘンを専売品として流通させており、関東軍もろとも、アヘン市場から巨額の収益を得ていた。

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交通部(第八庁舎)

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総合法衙
満洲国は四級三審制であった。総合法衙には、そのうち上位二級である最高法院と高等法院、および対応する検察庁が入居していた。

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民政部(第四庁舎)
最後に三つだけ、大同大街に所在する建築を紹介する。民政部は大同大街沿い、興仁大路よりも南にあった。

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関東軍司令部
関東軍司令部は大同大街沿い、大同広場よりも北にあった。
明確に興亜様式ではなく帝冠様式の建築である(両者を表面的な意匠の和風なるか大陸アジア風なるかで区別すれば)。写真は低層部が木々で隠れているので分かりづらいが、躯体は西洋風であり、中央部にのみ天守閣様の構造が聳える形になっている。日本軍は本土では全国の城内に司令部を置く習慣があり、それを真似たものだろうかと思わされる。
満洲国は実質的に関東軍に支配されていたわけだが、現在の入居者である中国共産党吉林省委員会も吉林省政府の実質的な支配者である。共産党レジームによる日帝建築の再利用を現実主義的なものと思うべきか、象徴の上書きを企図した思想的なものと思うべきか、私はずっと決めかねているのだが、共産党が数ある日帝建築から関東軍司令部を選んだ事実は後者を強く支持するものに思われた。

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大日本帝国大使館関東局
日本大使館は関東軍司令部から大同大街を挟んでちょうど向かいにあった。現在は吉林省政府によって使用されている。

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開拓者たち
新京の建設は日本国家にとっては、史上初めて、また、ただ一度だけ、試みられた更地からの近代植民都市の建設である。その第一の含意は、当時の日本国家が有していたもっとも新しい都市計画理論がこの地で実践に移されたということである。もう一つの含意は、当時の大日本帝国の全域からこの地に資本と人材が投入されたということである。つまり、その政治的には不当かつ極度に軍国主義的な性格とは裏腹に、新京には一種の先進的で開放的な空気があったに違いないのである。「大東亜」のプロパガンダのため興亜様式に拘泥した政府とは対照的に、民間建築はさまざまな様式を有している。もちろん、以上のことは依然としてかれらが政治的には不当かつ極度に軍国主義的な性格を有するプロジェクトへの主要な貢献者であった事実を無化しない1。
新京市のメインストリートは大同大街の大同広場よりも北の部分であり、現在もそこが商業施設の集積地である。
満州中央銀行
満洲中央銀行は大同広場の北西面に所在した。現在も中国人民銀行によって使用されている。

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満洲電信電話株式会社
満洲電信電話は大同広場の西面に所在した。やはり、現在も中国聯通(China Unicom)によって使用されている。

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康徳会館
康徳会館は大同広場より北に500mほど行ったところにあった中層建築である。

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海上会館
海上会館は康徳会館の通り向かいにあった。

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日本毛織株式会社
康徳会館の北隣にあった、水平連続窓とピロティを有する鮮烈なモダニズム建築である。現在は当時の意匠を部分的に尊重した建物が跡地に建っているのみで、現存しない。

ウィキメディア・コモンズより、パブリックドメイン。
受け継がれる興亜様式
長春市は1948年に「解放」された。ソ連撤退後の東北部では国民党軍が大勢を掌握していたが、次第に共産党軍が農村部に勢力を展開し、最終的に都市包囲戦の形となった。長春市はその最初の目標として選ばれた。しかし、共産党軍が取った戦略は通常の攻城戦ではなく、都市の完全な封鎖であった。現行政府が公式に否認しているため研究が不足しているが、半年近くに渡った長春包囲戦は十万人以上の餓死者を出したとされる。解放後に長春に移住した私の祖父などは今も無血開城であったと信じている。
それは手段を選ばない冷徹な現実主義だったのだろうか。いずれにせよ、共産党軍は十万人の同胞を殺したが、長春市に立った革命政府は多くの植民地建築を解体せずに再利用した。それだけではない。なんと、戦後の長春における建築には興亜様式の模倣と見えるものが数多く存在するのである。
皇宮建設予定地
上述した通り、順天大街の北端に予定されていた皇宮は基礎部分のみが完成した状態でソ連侵攻を迎えた。解放後、この土地は全体が新設された东北地质学院の所有地となり、基礎部分を流用して校舎が建設された。著名な建築家を招いて設計させたその校舎は、オーソドックスな興亜様式よりも中国建築の要素をより強く施した塩梅になっている。現在は吉林大学地質宮博物館。

ウィキメディア・コモンズにてパブリックドメイン。

ウィキメディア・コモンズにてパブリックドメイン。
エントランスに並ぶ赤い列柱はオーダーを連想させながらも同時に斗拱を模した鮮やかな装飾でも飾られ、単一の建築要素に洋の東西を同時に表象している。ともすればちぐはぐで不統一な印象を与えるだけに終始しがちな帝冠様式だが、ここにその系譜のひとつの完成形があるのかもしれない。
財政部(第三庁舎)
民政部(第四庁舎)の通り向かいにはそれと同設計の第三庁舎があり、当初財政部によって使用されていた。財政部は37年に経済部に再編されると同時に順天大街沿いの第十庁舎に移動したため、その後は様々な組織が出入りしたが、最終的に民生部国民勤労奉公局、ひいては45年より国民勤労部の所在地となった。
第四庁舎と瓜二つだった第三庁舎だが、戦後70年代に吉林省财贸学院のもとで大規模な増改築を受けたため、現在の姿は大きく異なる。しかし、その増改築は元の建築様式を尊重する形で行われたため、帝冠様式の特徴が保持されている。

wanghongliu による撮影、ウィキメディア・コモンズより、CC BY-SA 3.0。
興農部(第十一庁舎)跡地

董辰兴による撮影、ウィキメディア・コモンズより、CC BY-SA 4.0。
文教部跡地

董辰兴による撮影、ウィキメディア・コモンズより、CC BY-SA 4.0。
大屋根論争
一体どういうことだろう?
このような帝冠様式を後継したような戦後中国建築の形式の特徴は、一般に「大屋根(大屋顶)」と呼ばれた。中華人民共和国の文脈では、大屋根はスターリン的な「内容において社会主義的、形式において民族的」の表現だったのである。この形式の中核的な推進者とされたのは梁思成という人物だが、実際には彼の北京に対する計画案はほとんど共産党に却下されているので実権は小さかったと思われ、大屋根建築は共産党全体の方針であったと考えるべきかもしれない。ソ連でスターリンが死去し、同時に中国でも厳しい経済的現実が明白になってくると、大屋根建築はブルジョワ的ないし形式主義的として批判された。一連の騒動を大屋根論争という。
帝冠様式と大屋根建築において、国際主義と民族主義は意匠の中でそれぞれ異なる形で複雑に共存している。また、両者は国際主義と民族主義の双方の内実において明らかに対立している。そういった相違にも関わらず、両者が外観上はほとんど同じ形式に辿り着いたのは興味深い。
大屋根建築の本場は北京である。50年代に中央政府機能の多くが大屋根建築で用意された。
帝冠様式と大屋根建築の系譜上のつながりは、私が調べ得た範囲では不明である。大屋顶と呼ばれる建築には階層数の少ない民国時代のコンクリート製リヴァイヴァル建築も含まれるが、これらは帝冠様式と戦後の大屋根建築にあるような躯体と屋根の間の唐突な切り替えを有していない。したがって、私の憶測では帝冠様式から戦後の大屋根建築へ影響の流れがあったのではないかと思うのだが、研究を待たなければ分からない。
皇宮、映画、路面電車
コロナ禍以後、中国経済は苦境に陥った。以来、中国の経済文化的潮流はバブル崩壊以後の日本のそれをなぞっている。この記事に関係する範囲では、それは国内旅行の流行という意味である。歴史の浅い長春は日帝残滓の他に観光資源を多く持たない。必然的に、それらの観光地化が進む。これは日帝建築群を90年代から数多く保護文化財(文物保护单位)に指定してきた政府の方針と成果でもある。
満洲国皇宮
順天大街北端に予定されていた皇宮は完成しなかったわけだが、その間、市内北東部に臨時の皇宮が存在した。その敷地は84年から伪皇宫博物馆として一般公開されている。一番目立つ位置に建っているのは主要な生活空間として建設された同徳殿で、中国風の部屋、和風の部屋、映画上映室、ビリヤード室などを備え、溥儀らの豪華な暮らしぶりが展示されている。これに限らず、皇宮敷地内は当時の様子が忠実に再現されており、皇族の生活を覗き見るという趣旨の展示空間を成している。満洲国建国の経緯や抗日戦争の展開などの解説は、それに伴う大量のプロパガンダ的内容とともに、敷地東側の外れに併設された入館無料の东北沦陷史陈列馆に隔離するように配置されている。

ウィキメディア・コモンズにてパブリックドメイン。

九・一八の前日に訪問したため、歴史を記憶し、国家、民族、革命のため奮闘すべし旨の標語が掛けられている。
ウィキメディア・コモンズにてパブリックドメイン。
満洲映画協会
長春の全国的に有名な産業分野のひとつは映画製作であるが、その起源もやはり新京時代にある。満洲映画協会は満洲国政府と満洲鉄道が半分ずつ出資して設立された映画製作所であり、国策によって独占市場を与えられていた。その目的は設立当初より満洲国の経営理念のプロパガンダであった。戦後、共産党レジーム下で長春電影制片廠が設立された際、相当数の満映時代の日本人技師は同じ場所で続けて仕事をしたらしく、両者の系譜上のつながりは明白である。
組織の名前が長影に変わっても政治的な存在目的はしばらく変化せず、文化大革命の終わりまで、主要な製作物はやはりプロパガンダ映画であった。

前庭の毛沢東像は文化大革命期のもの。
ウィキメディア・コモンズにてパブリックドメイン。
満州映画協会のために建てられ、長春電影制片廠によって使われた建物は、今は博物館として公開されている。展示の半分は古い映画ポスターだが、エンドロールを撮影している様子を再現した部屋や、さまざまな小物を使って音響効果を再現して遊べる体験型の展示もある。また、別館には著名な映画に使われた大道具・小道具が大量に陳列されている。ルーツが満映にあることや、文化大革命時に映画産業も多大な影響を受けたことなども解説されているが、政治色は濃くない。
路面電車
新京には路面電車網が整備されていた。これも長春に受け継がれ、戦後も拡大を続けたが、80年代以降は縮小し現在は2路線のみが残る。現行の主力車輌は瀋陽で製造された900系だが、新京時代には日本車輌製造の車輌が使われていたため、戦後しばらくも日本製車輌が走っていた。また、戦後しばらくは国内の新造車輌も日本製のもののデザインを真似た形をしていた。日本製車輌は現存していないようだが、日本製のデザインを真似た戦後すぐの車輌はいくつか現存しており、レトロ風の見た目を買われて観光列車として走っている。

ウィキメディア・コモンズにてパブリックドメイン。
都市と都市と未来
この記事は長春における新京の存在感を過大に伝えてしまったかもしれないと思う。チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』は、同じ空間を占有するが対照的な政治経済状況にあるふたつの都市国家とその間の曖昧な境界線を舞台にした探偵小説である。そこでは、どちらの都市の住民も幼少期から特別な訓練を受け、もう片方の都市に属する建物、車、通行人などを本能的に見分けて無視(unsee)することで、境界線の向こうは存在しないという建前を保って暮らしている。私たちの都市の中に極端に異なる文脈が共存しているとき、このような現象はフィクションではなくなる。現在の長春において、新京は見出そうと意識しなければ見出だせない程度の大きさしか占めていないが、新京だけを見ようと思えば、それもまた簡単なことであった。
帝冠様式は、対立するふたつの文化を融合させることができないまま、それらを外科的に強引に接合した建築様式である。けっきょく、それは根底の精神性からして失敗しているのだと考えなければならない。
私たちの間に経済的、文化的、歴史的靭帯があるとき、それを呪縛やレバレッジと思うか、未来への資産と思うかは、私たちの解釈にまったく委ねられている。なるほどそれは新自由主義の論理ではあるかもしれない。その行き先は今や観光コンテンツ化でしかないのかもしれない。しかし、それ以前に存在したものがいずれも狭窄なプロパガンダの空間であったことを思うとき、物事には順番があり、東アジアの国際関係は新自由主義を批判する段階にはないのではないか、とも私には思われるのである。
参考文献等
地図
1940年の『新京市街地圖』が国際日本文化研究センターのウェブサイトで閲覧できる。
新京市街地圖 : 最新地番入
このウェブサイトはズームインしなければ高画質なスキャンが読み込まれず不便である。通りの名前だけを概観したい場合は、50年代に米軍が作成した次の地図がウィキメディア・コモンズで見られる。
File:Txu-oclc-6614368-nk51-3a.jpg
少し古いもので良ければ、1936年の『新京概圖』がやはりウィキメディア・コモンズで見られる。
File:Manchukuo Hsinking Map 1936.jpg
文献
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山室信一『「満州国」の法と政治――序説』、京都大学学術情報リポジトリにて
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周家彤『長春市における「満州国」旧祉群の保存とその変遷』、愛知淑徳大学知のアーカイブリポジトリにて
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魏源鴻、松井大輔『中国・長春市における「満州建築」の転用の歴史的経緯に関する研究』、J-STAGE にて
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アジア歴史資料センター『公文書に見る「外地」と「内地」』
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Peter G. Rowe, Seng Kuan. Architectural Encounters With Essense and Form in Modern China
Footnotes
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このような一見矛盾する表裏の共存は通時代的に植民地なるもの全般で見られると思うが、その議論はここではさておく。 ↩