バチガルピ『ねじまき少女』
サイバーパンクの影
サイバーパンク以後、SF は手詰まりになったような感がある。戦間期はパルプ・フィクションの時代だった。第二次世界大戦が終わるとすぐにニュー・ウェーブが始まった。そして80年代にサイバーパンクが発明される。それから半世紀近く経ったのに、私たちはまだサイバーパンクをありがたがっていて、SF の新しいパラダイムは現れていないような気がする。ハヤカワはウィリアム・ギブスンを復刊・新装していて、テレビアニメのほうでは『攻殻機動隊』が何度目かわからない映像化をされていて(とはいえ、やっと原作に忠実な映像化が出てきたのだから、ファンには同情するところはある)、ビデオゲーム『サイバーパンク2077』の記憶もまだ新しい。実写の方面では、Apple TV がドラマ『ニューロマンサー』のティザーを出したところだ。もう半世紀前のジャンルなんだぞ。もっとなにかないのか。
といっても、作家たちを責める気にはならない。SF はどうしようもなく現実の科学技術の様態に依存している。サイバーパンクの次の SF が現れないことを考えるたび、私は21世紀が前世紀末に始まった情報革命の只中に未だあるという事実に突き当たる。現実と融合するサイバー空間、テック企業による社会インフラの独占、急進歩する人工知能、といったテーマは今こそ(80年代に比べてさえより強く)切実なものだと感じずにはいられない。
サイバーパンクから直接派生したジャンルには、まずポスト・サイバーパンクがある1。これはサイバーパンクからディストピアの色を抜いて舞台世界に対し中立的なトーンで書かれた作品をだいたい指す。それから「パンク」で終わる派生ジャンルたちがある。スチームパンク、ディーゼルパンク、バイオパンク。しかしこれらのパンク系のうち、まともな文学的蓄積があるのはスチームパンクだけだろう。スチームパンクはそもそもサイバーパンク作家の当事者ら自身が打ち立てたジャンルである。ポスト・サイバーパンクとスチームパンクはいずれも小説の世界では90年代に盛り上がったきりで、21世紀まで話題が保ち続けることはなかった。
独自の史観になるが、21世紀に入ってすぐに流行ったのはおそらくシンギュラリティものである。サイバーパンクが扱った人工知能をシンギュラリティものは極限まで外挿し、それまで人間と機械の関係を表象するに過ぎなかったモチーフを、宇宙観に言及できるほどのものに成長させた。The Metamorphosis of Prime Intellect の出版が2002年2、『アッチェレランド』が2005年である。
そういった試みがすべて新しいパラダイムを生み出すことに失敗した先に、今のサイバーパンク・ルネサンスがあるように私には思える。それで、やっと『ねじまき少女』の話ができる。『ねじまき少女』はバイオパンクに文学的蓄積を与えようとする作品である。そしてそれは成功したと言っていい。2009年に出版された本作は英語圏の SF 小説に与えられうるもっとも威信ある賞を総なめにした。それでもなんらかの潮流を生み出すには至らなかったのが実情ではあるが、サイバーパンク以後にサイバーパンクを超克しようとした作品の中では特筆に値する地位を占めるはずだ。
一方で、すでに世界中で書き尽くされたように、本作の生物学や物理学への理解には重大な問題が大量にある。たとえば、本作の世界では電気工学が失われているので、遺伝子改変で生み出された巨大な象が巻きばねを巻いてそれをバッテリー代わりにしているのだが、現実には、動物はエネルギー変換器として使うには効率が著しく悪い。象に食わせる飼料があるならそれを直接バイオ燃料に加工すべきである。おそらくバチガルピはバイオパンクのビジュアルや質感をしっかり扱いたかったのであり、その目的のために大いに科学を無視したのだと思われ、それは良い割り切りだと私にも思える。しかしながら、そうであればこそ、同時代的な科学技術に立脚していたサイバーパンクに匹敵することが叶わないのは必然ではないか。
オリエンタリズムを超える
『ねじまき少女』はもうひとつの意味でもサイバーパンクを超克しようとしている。それはサイバーパンクのオリエンタリズムだ。80年代、日本の天井の見えない経済成長と情報技術分野での独占はあらたな超大国の出現を告げているかに思われ、自然とサイバーパンクは日本文化を大きく扱った。しかしそれはしばしば雰囲気以上のものではなく、日本文化への真に深い理解に基づいた描写は見られなかった、ということは日本語話者に向かって論じるまでもないだろう。『ねじまき少女』は周辺地域の荒廃によって人種のるつぼとなった23世紀のバンコクを舞台とするが、そこに表れる東アジア〜東南アジア文化(とくに言語)への造詣には驚くべきものがある。
私は中国語が読めるので、説明なく出現した中国語文を理解できた。たとえば9章末尾、rickshaw(リキシャ)に乗った登場人物が運転手に急ぐよう求めるシーンにこうある。
gan cui chi che, kuai kuai kuai!
簡体字に書くと「赶快出车,快快快!」だと思われる。意味は「早く車を出せ、早く早く早く!」。あるいは、tamade という表現が英語の fucking のように文中の任意位置に挿入される用法で使われるが、これは「他妈的」である。また、fengle というのもあった。これはフェングルなどと読む英単語ではなく、中国語で「狂った」を意味する「疯了」で、音節は feng-le となる。こんなことが対象読者である英語話者に伝わるのだろうか!? もちろん舞台がタイなのでタイ語のほうが多く出現する。そちらは私はさっぱりだが、こちらのブログが解説してくれていた。邦訳版の解説によるとバチガルピは大学で東アジア学を専攻しており、中国に数年間在住していたこともあるという。なるほど。
だがこの作品にオリエンタリズムを見出す立場も理由なきものではない。
ひとつに、23世紀になってもタイ人が王室と仏教への信仰を深く有していたり、日本人が畳を使っていて刀を飾っていたりすることの根本的なおかしさが作品を貫いている。なぜ世界がバイオパンク・ディストピアに至ったのかが詳しく書かれていないあたり、そもそもバチガルピは舞台世界の時代性に関心を持っていないのだと思うが、そうだとしても、そのような舞台世界を作り出した作為の責任は作者にある。
それからもう一点述べておかねばならないとすれば、タイトルでもある「ねじまき少女」のエミコは日本製のセックス用遺伝工学アンドロイドで、これは日本人女性の性的対象化であって典型的なオリエンタリズムだと指摘すべきかもしれない。しかし、エミコは遺伝子と訓練の両方で従順な性玩具として振る舞うよう条件付けられているという設定である一方、彼女がその本能に抗って自由を求めようとするのは本作の中心的テーマのひとつだ。それはひょっとすると典型的な描写の反転を試みた跡なのかもしれないとも思う。
結語
ふたつの側面から、『ねじまき少女』がサイバーパンクを超克しようとしていることと、その成否のほどを簡単に見てきた。あまりどちらとも言い切れない位置に本作は浮かんでいる。また、科学的正確性の軽視と伝統文化の香りの異様な強さは、総体として SF というよりファンタジーに近い読み心地を作っている。やはり、真剣な未来に関する思弁よりもジャンルの質感を重視した必然的結果だろう。
娯楽としての評価も一言添えておこう。本作は群像劇である。前半と中盤に各視点があまり交差しない比較的退屈なセクションがあるが、終盤でバンコク全体が大動乱に見舞われプロットが怒涛の勢いで回収されるので、最後の4分の1は夢中で読んだ。展開がある方向に向かうかと思えばすぐに180度反転し、という技を使いすぎている節があるが、作中でも強調されるように、これは仏教の諸行無常が念頭にありそうだ。
なお、邦訳があまり良くないので原著版を読んだ。原著の英語はサイバーパンクを意識しているにしてはとてもやさしく、『ニューロマンサー』や『アッチェレランド』のようにセリフの発話者すらわからないという事態には一度もならなかった。
Footnotes
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人によってはこの言葉を「サイバーパンクを意識したサイバーパンク以後の作品」全般の意味でも使うようだ。ここでは狭義のジャンル名として使うことにした。 ↩
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ちなみに書かれたのは1994年で、8年間未出版だった。94年にシンギュラリティものを書く先見の明に驚く。ヴァーナー・ヴィンジが技術的特異点のアイデアをまとめたエッセイを公表したのは実にその前年である。 ↩